自信とプライドの違い!本当の自信は弱さ受け入れること!
2018.06.17
誰にでもなりたい自分、憧れる人物像があると思います。誰とでも仲良くなれることとか、いつも前向きに考えられることなど、色々ですよね?
その中でも、「いつも自信に溢れていること」に憧れる人が多いのではないでしょうか?新しいことにためらわずに挑戦して、人生をどんどん前に進めることができる人は、力強くて格好よく、誰からも信頼されます。
でも、誰でも憧れる”自信”ってどんなもの?と聞かれると、ぼんやりしていて分かりにくいかもしれません。
実は私たち日本人は、”自信”と”プライド”を混同してしまうことが多いのです。
自信は心に安定と平和を与えてくれますが、プライドは最終的には、不安や焦り、苛立ちを生むものなのです。
いったい、自信とプライドの違いは何なのでしょうか?
その違いを考えてみたいと思います。
自信とプライド
自信とプライドは本来どのような意味の言葉なのでしょうか?
それぞれの意味をgoo辞書(デジタル大辞林)で調べてみましょう。
似たような意味に思えますが、実は大きなちがいがあります。プライドには、”他からの干渉を排除する態度”が含まれるのです。
この違いを分かりやすく例えると、”自信がある人”は、もし、他人から誤りを指摘されたら、考え方や行動を改善します。
しかし、”プライドが高い人”は、他人から誤りを指摘されても、それを受け入れず、考え方や行動を改めることはありません。
“自信がある人”は、考え方や行動を変えたとしても、自分の評価や価値は変わらないと確信しているため、他人からの指摘に対して素直でいられます。
一方の”プライドが高い人”は、考え方や行動が変わると、自分の価値が下がると信じているため、他人からの指摘に従うことをを、自分の人格の危機と考えるのです。
実は”自信のある人”は、周りから言われたことに対して、それが正しければ改め、間違っていれば無視するだけです。そのため、誰に対しても自由で、いつも心には安定と平和があります。
しかし、”プライドが高い人”は、周りから言われたことに対して、常に反論し、自分を頑なに守ります。そして、自分が正しいことを証明するために、時間とエネルギーを費やします。その結果、心の深い部分には、常に不安や焦り、苛立ちが存在するのです。
皆さんは自信とプライドのどちらが欲しいでしょうか?
恐らく自信と答える人がほとんどですよね?
では、自信を手に入れるためには、どうすれば良いのでしょうか?
次はその方法を見ていきましょう。
自信は自分だけでは手に入らない!
既にお伝えした通り、自信の源は「自分の評価や価値は、何があっても決して変わらない」という確信です。
でも、そんな確信はどうすれば持てるのでしょうか?
常に成功と勝利だけの人生であれば、評価や価値は変わることは無いでしょう。でも、実際には、どんな人でも、失敗や挫折は必ず経験します。
むしろ、普通に生活していれば、自分の評価や価値が下がる可能性があることなんて、日常茶飯事と言っても過言ではありません。
そんな毎日の中で、”自分の評価や価値”を下げないためのたった一つの方法は、『評価や価値が下がっても自分との関係を変えない人を増やす』ことです。あるいは『何があっても、自分への評価や価値を下げない人との関係を増やす』と言い換えても良いかもしれません。
評価や価値を決めるのは、常に他人です。実はどんな人でも、自分で自分を評価したり、自分の価値を決めることはできません。
評価や価値を決めるのは常に他人です。そのため、自分への評価や価値を気にすることは、常に他人に支配されてしまうことになるのです。
しかし、もしかすると「他人に支配されるのが嫌なら、何言われても無視して、他人が決める評価や価値なんて気にしなければ良いじゃん!」て思う人もいるかもしれません。
でも、これって実は”プライドが高い人”の考え方と似ていると思いませんか?ただ、”無視”したり”気にしない”ようにするだけでは、それはプライドと隣り合わせです。
重要なのは、周りからの言動には、素直に耳を貸すけれども、自分の人格には影響を受けないことです。
そのためには自分に対する評価や価値を変えない、安心できる人間関係が重要なのです。
では、そのような人間関係はどのようにすれば得られるのでしょうか?
実は聖書では、イエスから揺るぎない自信を貰った人がいます。
次はその人のことを紹介します。
自信は誰かに受け入れられた時に得られる
聖書の中では多くの人が、イエスにとって変えられています。
その中の一人が、使徒であるペトロです。
彼はイエスにとって、最も重要で最も大きな試練の時に裏切りました。
その場面が次の聖句です。
人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
ルカによる福音書22章54節~62節
当初イエスは、イスラエルをローマ帝国の植民地支配から解放してくれるリーダーとして、民衆から熱狂的に迎えられました。
しかし、イエスは、民衆の期待とは、かけ離れた言動を繰り返し、最後は神様を冒涜したという濡れ衣を着せられ、十字架刑の判決を受けたのです。
“神の冒涜者”という罪はイスラエルでは、最も重いものです。ペトロにとっては、そんな罪人の仲間と知られるのは、とても危険なことでした。
そのため、この聖句には、ペトロが「イエスのことなど知らない!」と必死で否定する姿が書かれています。
彼には最後までイエスに従う勇気や自信はありませんでした。
実はペトロはイエスから「私のことを三度、知らないと言うだろう」と予言されていました。そして、その言葉通りにイエスを裏切った罪悪感から、激しく泣きました。
主と仰ぎ「何があっても裏切らない!」と宣言していたにもかかわらず、彼はイエスを裏切りました。彼にとって、人生最大の取り返しのつかない失敗でした。
イエスがこのまま死んでしまったのであれば、彼には挽回のチャンスはありませんでした。しかし、イエスは復活しました。
そして、ペトロは復活したイエスと和解することができました。
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
ヨハネによる福音書21章15節
ペトロはイエスのことを裏切ったにもかかわらず、イエスは彼を赦し、そして、”子羊を飼う”すなわち、初代教会のリーダーの役割を託したのです。
ペトロは取り返しのつかない過ちを犯したにもかかわらず、イエスからの信頼は減るどころか、更に大きな責任を任されました。
その後のペトロは、以前とは全く逆の揺るぎない自信に満ちた人間に変わりました。
ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」
使徒言行録4章1節~20節
ペトロはイエスを十字架刑にした人々に対して、今度は逃げませんでした。このような人々の前で、イエスのことを堂々と語るのは、過去のペトロでは考えられないことです。
しかし、ペトロは、「イエスのことを延べ伝える事」が自分の使命だという、自信に満ち溢れた人間に変わっていました。
ペトロにはどんな失敗を何度しようとも、自分の評価や価値は、全く変わらないという確信ができたのです。
このように自信は、自分だけで作り上げることはできないものです。
自分を信頼してくれる、良い人間関係が必要不可欠なのです。
最後に
皆さんは自信とプライド、どちらが強いでしょうか?
もちろん、どんな人でもプライドがゼロで、自信しかないなんてありえなと思います。
私なんてプライドの塊ですから…。
というわけで、もう一度、自信とプライドの違いをまとめておきますね。
- 自信
自分の能力や価値などを信じること。そして、どんな失敗をしても、その能力や価値が下がることは無いと確信している。
- プライド
自分の能力や価値などを信じること。ただし、その能力や価値を維持するために、自分を守り、他人からの干渉を排除する。
自身に満ち溢れた自分になりたいと思った時に、多くの人は自分を磨くことを真っ先に考えると思います。もちろん、それは大切です。
何の土台も無ければ、自信を持つ以前の問題でしょう。
しかし、過度に自分を良く見せようとすると、それはプライドとなり、自分を縛り付ける苦しいものになります。
自信を身に付けるためには、自分ではなく、信頼できる人間関係を増やすことを意識してみてください!
2018年6月17日 7:41 PM | カテゴリー: キリスト教の豆知識
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